研究課題:温暖氷河の底面滑り機構の解明

(1)     研究目的

氷河は氷の塑性変形と氷河底面での滑りによって流動し、このうち氷河底面滑りは氷の復氷と変形によって理解されてきた。しかしながら夏季に氷の融解を生じる温暖氷河においては、氷河底面下を流れる水が底面滑りに大きな影響を与えると考えられる。特に氷の融解が始まる季節には融解水の供給と水脈の成長が拮抗して、氷河底面水圧と流動速度に複雑な変化を及ぼす。

以上のような観点に着目して、温暖氷河の底面滑り機構を解明する目的の研究が国内外で行われつつあるが(例えばB. Hanson et al. 1998)、長期的かつ連続的な観測に基づいてその機構を説明した例は無い。そこで本研究では、温暖氷河の歪を時間的かつ空間的に高い分解能で観測し、氷河流速、表面融解量、末端河川流量といった要素との比較により、氷河の底面滑り機構を理解する事を目的とする。最終的には、多くの温暖氷河を抱える低緯度山岳氷河の流動機構に説明を与えたい。

B. Hanson, R. L. Hooke and Edmund M. Grace Jr, 1998, “Short-term velocity and water-pressure variations down-glacier from a riegel, Storglaciaren, Sweden”, J. Glaciol., 44(147) 359

(2)     研究内容

1.歪測定の意義

氷河の流動を観測によって調べる手段としては、雪尺を用いた表面流速の測定が一般的である。しかしながら測量という観測手法の性質上、時間的に分解能を上げる事は難しく、測定点数も限られる。また、氷河が氷の塑性変形と底面滑りとによって流動すると仮定すれば、底面滑りを論ずるためには観測される表面流速から塑性変形の成分を分離する必要がある。

表面流速の他に流動に起因する氷河の物理的挙動として、氷河の歪が挙げられる。氷河表面または氷河内部の歪は氷河の流速分布によって生じるため、氷河流動に関する直接的な情報を与える。氷河の歪を測定するには、氷河上に形成した歪格子の測量がこれまで一般的であった。しかし上で述べた流速測定と同様、時間的及び空間的に密な測定は困難である。そこで本研究では、新しい歪測定装置を開発する事により、高い時間分解能(連続的測定)及び空間分解能(氷河上の数10点で測定)で、高精度かつ長期間(通年観測)の測定を実現する。氷河上の多くの地点で連続的に長期間に渡って歪を測定する事により、別に観測される氷河表面流速から塑性変形に起因する成分を分離し、氷河底面での滑りを議論する事が可能となる。さらに底面滑りの変化を空間軸及び時間軸を追って解析する事により、刻々と状態の変化する温暖氷河のどこで、いつ、どのくらい滑っているのかを明らかにし、融解量、末端河川流水量、氷河底面水圧、その他気象データと比較する。以上の研究過程によって、温暖氷河の底面滑り機構が明らかになると考える。

2.歪測定装置の開発

高精度(10-6以上)、高時間分解能(1hr以下)、長期間測定(1年)という仕様を満たし、氷河上多数点での測定を可能にする小型化、機構の単純化を実現する。これらの要求を満たすためには氷河表面での氷の変形を何らかの形で電気信号に変換し、自動記録装置によって観測データを蓄積する手法が妥当と考えられる。具体的な歪測定手法として、ワイヤーの抵抗測定、変位計の利用、歪ゲージ素子の応用などを試行中である。

自動測定に関する技術は、これまでに氷河上で行なわれてきた通年気象観測のノウハウを利用する。氷河上での測定を行なうために、温暖氷河の消耗が激しい夏季には定期的なメンテナンスが必要となるが、人手が入れなくなる冬季には逆に氷河表面の状態が安定し、無人測定が可能になると考えられる。

3.実際の観測

開発した測器を山岳氷河に持ち込み、氷河上の多数点で夏季の有人測定、冬季の無人自動観測を実施する。夏季には、表面流速、気象データ、末端河川流量、底面水圧等を並行して観測し、歪測定結果と組み合わせた有機的な解析を行なう。観測を行なう氷河としては、冬季の涵養と夏季の消耗が激しい温暖氷河が望ましく、カムチャッカ、パタゴニアなどの山岳氷河を対象とする。

(3)     研究の特色

1.新規開発の測器による歪測定

従来まで行なわれてきた研究と比較して、空間的にも時間的にも密度の高い表面歪観測を、通年に渡って行なう点が、本研究最大の特色である。

氷河底面の状態が季節によって大きく変化する温暖氷河の底面滑りを論ずるためには、氷河流動が氷河面内でどう分布しているか、時間的にどう変動するかを観測する必要がある。しかしながらこれまでに観測されているデータは、測定点が氷河上の限られた数点であることが多い。また時間的に目の粗い測定が多く、連続的な測定がなされた例においても測定期間が限られている。本研究で開発される歪測定装置は、氷河上の多点(数10点)で連続的に通年の流動観測を可能にするものであり、従来得られなかった新しい情報を与える。岩盤の局地的な地形に起因する変動から氷河全体の流動まで、数時間のオーダーで発生する突発的なイベントから季節変動まで、幅広い議論を可能にする。

2.多面的な観測データの利用

今回開発する装置によって得られる表面歪のデータ以外にも、表面流速、末端河川流量、底面水圧、気象データ、氷厚などを観測項目として予定している。申請者の属する研究グループは山岳氷河においてこれらの観測の多くを経験しており、グループに蓄積された技術やデータの利用が可能である。本研究では、氷河から得られる多面的な観測データを有機的に絡めた解析が期待できる。

3.地球規模の環境変動への展開

比較的低緯度に分布する温暖氷河の消長は、気温や降水量、降雪量といった気象要素に影響を受けやすいため、近年注目されている地球規模の環境変動を知る上で重要である。本研究によって温暖氷河の底面滑り機構を説明する事は、すなわち温暖氷河の流動機構を理解する事であり、氷河の変動と環境変動の関係を議論する上でも重要な基礎情報となる。申請者の属するグループにて行なわれている氷河のモデル計算、氷コア解析による古環境復元とも連携して、地球環境の過去と未来にまで議論を展開し得ると考える。

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