Research Frontiers 北海道大学低温科学研究所


  • case.1 准教授 白岩孝行

    遠い大地の湿地が支えるオホーツク海の豊かな環境 ※「海洋基礎生産にとっての湿地—アムール川と親潮・オホーツク海の事例—」より


  • 森と川と海の関係性


  • 「魚つき林」(うおつきりん)という言葉をご存じでしょうか。

    行政的には、海面に映る森林の影に魚が集まることなどから、海岸の森林が魚つき林と呼ばれていました。しかし近年では、生態系としての森と海とのつながりが知られるようになり、広い意味では川の上流部の森林も魚つき林と呼ばれるようになっています。

    日本の漁業者の間では江戸時代から、海に注ぐ川の上流にある森林が、海の生物にとってよい影響をもたらしていることが経験的に知られていました。

    しかし、「よい影響」がどのようなプロセスで陸から川、海へと到達するかは、まだ十分な研究がなされていません。

    私たちの研究チームでは、親潮とオホーツク海におよぼすアムール川の影響を調べ、大陸スケールでの陸の状態と、外洋スケールの海の豊かさの間につながりがあることを明らかにしました。そして、特に湿地の存在が重要であることがわかったのです。

  • fig1


  • 「巨大な魚つき林」としてのアムール川流域


  • オホーツク海と親潮は、世界でトップクラスの豊かな海です。

    海の豊かさの指標となるのは、海の生態系の底辺となる植物プランクトンがどのくらい光合成できるか(有機物を生産できるか)ということ。植物プランクトンは海中に溶けた窒素、リン、ケイ素などを栄養としており、海洋の循環によってこのような栄養が豊富な高緯度の海では、植物プランクトンの光合成は陸からの影響を受けていないと考えられていました。

    しかし、私たちは、植物プランクトンの生育に必要な鉄が、アムール川によってオホーツク海と親潮にもたらされ、その豊かさに重要な役割を果たしていると考えています。

    鉄は水に溶けにくい元素です。特に、海塩などの溶存物質が多い海では、鉄は酸化鉄となってしまうため、水に溶けません。けれども陸地には、湿地のようにいつも鉄が水に溶けている環境があります。

    そして、湿地とその周辺の森林から供給される腐植物質が鉄と結びつき、酸素の豊富な河川でも鉄が粒子化するのを防いでくれます。つまり、森林や湿地の多い陸の環境は、川を通じて豊富な鉄を海に与えてくれる能力を持っているのです。ただし、この鉄は塩分濃度の高い海水に接すると、塩と反応して大部分は海底に沈殿してしまいます。そのため、一般的には、川を通じて運ばれた鉄は、沿岸部はともかく、外洋には運ばれないと考えられてきました。

    けれども、オホーツク海には海氷(一般でいう流氷)ができることによって起こる海洋の循環(鉛直循環)があります。また、東カラフト海流という強力な海流もあります。アムール川が運び、大陸棚に堆積した鉄は、この二つの海洋の動きによってオホーツク海の中層を通り、千島列島付近の潮の動きによって広く親潮の表層へと運ばれていることがわかってきました。

    つまり、アムール川流域は、オホーツク海や親潮にとっての巨大な魚つき林になっていたのです。

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  • 鉄を生み出すアムール川流域の湿原


  • 図1は、アムール川水系で測定した鉄(溶存鉄)の濃度の平均値を示したものです。日本の平均的な河川に比べ、いずれも一桁以上高い鉄濃度となっています。中でも、大きな支流である松花江やウスリー川の合流地点に大きな丸が集中し、特に鉄濃度が高いことがわかります。ここには中国最大の湿原である三江平原があります。北方の湿地は、気温の低さもあって枯れた植物の分解が遅く、その過程で酸素が消費されていることから、常に鉄が水に溶けやすい環境となっています。

    私たちがアムール川流域の陸地で観測した結果、鉄濃度は湿地>>水田>>自然森林>火災を受けた森林>畑という順番で低下することがわかりました。つまり、湿地がどれだけあるかが、海洋にどれだけの鉄が運ばれるかの目安になるのです。

  • 図1 アムール川水系で測定した鉄(溶存鉄)の濃度の平均値

    図1 アムール川水系で測定した鉄(溶存鉄)の濃度の平均値


  • それぞれの国の土地利用で、世界の海が変わる


  • 近年、アムール川流域では、草地や湿地の大幅な減少と、畑や水田の増加が見られます。湿地の減少が最も顕著な三江平原を流れるナオリ川では、20世紀の半ば以降、川の水の鉄濃度が急激に減少しています。

    2005年に世界自然遺産に設定された知床は、流氷ができるオホーツク海と豊かな森を抱えた陸との関係性を背景に、ユニークな生態系が作られていることが、設定の根拠となりました。このオホーツク海と隣接する親潮の生態系を底辺で支える植物プランクトンが、遠い大陸の湿地に源を持つ鉄の存在によって支えられているのです。

    これは、生物多様性の保全にとって、その背景にある広い範囲の陸地や河川の環境に注意を向けることが重要だということを意味します。

    海岸線という陸と海の境界、アムール川とオホーツク海をとりまく多国間の国境、巨大魚つき林という環境システムの上に暮らす人々の政治・経済・言語・文化・生業という境界を乗り越え、この豊かな自然をどのように次世代に残すのか、極東地域に住む私たちの協力と知恵が試されます。

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  • 准教授 白岩 孝行

    1964年 東京都生まれ。
    1987年早稲田大学教育学部卒業。
    1990年 北海道大学大学院環境科学院博士後期課程中退。
    同年、北海道大学低温科学研究所に助手として奉職。
    2000-2001年スイス連邦工科大学客員研究員。
    2005-2009年大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 総合地球環境学研究所 准教授。
    2009年〜現在 北海道大学低温科学研究所 環オホーツク観測研究センター 准教授。
    専門は雪氷学、地理学。
    河川流域と沿岸域の物質循環研究が現在の研究テーマ。
    趣味は自転車ロードレース。


  • 2016年1月14日公開

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